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東京高等裁判所 昭和36年(う)225号 判決 1961年12月05日

被告人 中田勇雄

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金三千円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金三百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

原審及び当審における訴訟費用は、全部被告人の負担とする。

理由

検察官の論旨は、原判決は、被告人が道路を横断し始めた被害者の姿を発見した地点及び被告人の過失の有無について事実の認定を誤まり、未だ犯罪の証明がないとして無罪を言い渡したのであつて、原判決には判決に影響を及ぼすこと明らかな事実の誤認があるというのである。

そこで原判決をみてみると、原判決は、その挙示する証拠によつて、諏訪自動車株式会社の運転手である被告人が、昭和三十三年十一月二十五日午前十一時十八分頃同会社所有の普通乗合自動車長二あ〇五五六号を運転して、岡谷市方向から諏訪市方向に向い時速約三十粁で、諏訪郡下諏訪町富ヶ丘六千三百三十五番地先国道(巾員六、九五米、直線、約百分の三の下り勾配、アスフアルト舗装に砂がまかれている)上を進行中、前方約五十米、道路左側(進行方向に向つて、以下同じ)端にある同会社の停留所標識の反対側すなわち道路右側端に太田松之助(当時七十二才)が道路中央を背にして立つているのを認め、さらに同速度で約三十米進行して被告人の(座席の位置)と右太田との距離が約十五・二米となつたところ、太田が左手を挙げて乗車の合図をしながら道路中央附近に向つて斜に(諏訪方向に)歩み始めたのであるが、被告人は太田が自動車の前方を横断することはないと考え、かつ前記停留所附近まで進行して停止しようと考え、制動措置をしつつさらに約六米進行したところ、太田は自動車の前方を横断すべくさらに道路中央附近まで進み出てきたので、衝突の危険があると考え急制動措置をしたのであるが、被告人の自動車はさらに約九・一米進行して停車し、太田もその間さらに進み出たため、その停車位置附近で自動車の前部附近を太田の腰部附近に追突させて同人を転倒させ、よつて同人に対し全治まで約一ヶ月を要する顔面複雑擦過裂創、後頭部打撲症、右足膝蓋部擦過打撲症、右環指及び中指擦過傷の傷害を与えたとの事実を認めた上、右のような状況の下で歩行者が道路中央附近に向つて歩き始めたのを認めたにすぎない段階においては、歩行者が道路を横断するかどうか未だ明らかでなく従つて衝突の危険も明らかでないのみならず、道路交通取締法施行令(昭和二十八年八月三十一日政令第二百六十一号)第十条は歩行者が自動車の直前で道路を横断してはならない旨規定している上、歩行者が自らの生命、身体の危険を冒してあえてかかる行為に出ることは通常考えられないところであるから、自動車運転者に対してこれを予想することを義務として要求することは相当ではなく、従つてこのような場合自動車運転者には、警笛を吹鳴して歩行者に警告を与え又は徐行もしくは急停車の措置に出るまでの義務はないというべきであると判示しているのであるが、原審で適法に証拠調をした諏訪自動車株式会社取締役社長宮坂健治郎作成の昭和三十五年六月二十二日附検察官に対する回答書及び原審証人藤森睦臣の証言によれば、被告人の雇われていた諏訪自動車株式会社が昭和三十一年八月一日附運輸省令、自動車運送事業等運輸規則第二十七条に基き制定した同会社運転者安全服務規律第十条によれば、停留所通過の際は、乗降客の有無に拘らず徐行しなければならない旨規定して居り、被告人の当審における供述によれば、会社の規定からいえば、停留所を通る時は客がなくても減速しなければならず、長野県の場合は、十粁以下にして何時でも停車できる状態にしなければならないことになつて居り、富ヶ丘停留所で停車する場合には、普通天候のよい場合には、停留所手前の踏切道辺りでブレーキをかけるというのであるから、被告人が本件富ヶ丘停留所を通過するに当つては、右踏切道附近より乗降客の有無に拘らず時速十粁以下に減速徐行すべき業務上の注意義務があるものといわなければならない。

又司法巡査の実況見分調書、検察官の実況見分調書(五項の(1)は除く)当審の検証調書によれば事故現場の判示富ヶ丘停留所附近は巾員六・九五米のほぼ東西に走る平坦なアスフアルト舗装道路(当時砂がまかれていた)で見通し良く附近に人家等も少い郊外の道路であるところ、右各調書並びに被告人の原審第五回公判期日及び当審における各供述によれば、「下諏訪方面から来ると陸橋を渡り左にゆるくカーブし、更に右にゆるくカーブしていて、右にカーブした辺から本件事故現場までは道路が真直なので見通せるのであつて、被告人は、右の右カーブを曲つたとき前方百二十米位先の道路右側に被害者太田が諏訪湖の方を向いて立つているのを認め、被害者が手をあげて動き出すのを見た処まで来る間ずつと被害者を見ていた。被害者が手をあげて動き出したのは被告人の自動車が『工六五号』の電柱の前(東)の踏切道を越してからで、被告人が従来指示したとおりであるが、被害者は手をあげる前にふり向いて被告人のバスの方を見たので被告人は商売柄その時被害者は、バスに乗るのではないかと思いブレーキを踏んだ。被害者が湖水の方を向いて道路右側に立つているのに気付いたのは司法巡査作成の実況見分調書添付図面記載の<1>点ではなく、それより手前である」というのであり、一方原審及び当審における証人太田松之助の証言によれば、被害者太田松之助は、当時富ヶ丘停留所附近には、他には人は居らず同人のみがバスの来るのを待ち退窟したので停留所の反対側に立ち諏訪湖の方を見ていたが、バスが来るかと時々下諏訪の方を見ていた。そしてバスが下諏訪の方から曲つて人家の処から出て来たのでバスの来たのを知り、手を挙げれば自動車は停留所に止るものと思い左手を挙げ自動車を背にして停留所より少し先の方へ後を振り向くことなく斜に道路を横断しようとしたことが認められる。同人が立つていた場所は、停留所の反対側とはいえ停留所の近くであり、しかも同人は被告人から見て右側道路を歩いているのではなく、湖水を見て立つていたというのである。そして人家の少い郊外の道路等においては、バスの乗客が停留所ではなくその附近に時としては反対側においてバスを待つていることは間々存することであるから、乗合自動車の運転者たる被告人は、右太田の動静に留意し、停留所に停車する時と同様何時でも停車できる程度に減速徐行する等事故を未然に防ぐため万全の措置を構ずべき業務上の注意義務があるものというべきである。然るに被告人は右太田の動静に留意することなく、停留所に差しかゝりながら減速徐行することなく毎時約三十粁の速度で進行し、太田との距離が約十五・二米に近接し、同人が左手を挙げ合図しつつ道路中央に向つて歩き出したのを見て、一旦ブレーキを踏んだのみで慢然右太田は道路中央附近で立ち止るか或はバスの後方に廻るものと軽信しブレーキをゆるめ進行したため、更に太田に近接して急停車の措置を構じたが間に合わず右自動車の前部を太田に衝突させ本件事故を起したもので、本件事故は被告人の前記注意義務違反による過失に基くものであること明らかである。

成る程旧道路交通取締法施行令第十条及び新道路交通法第十三条は、歩行者は、諸車の直前又は直後で道路を横断してはならない旨規定して居り、被害者太田はバスの来るのを知るやバスの方に背を向け左手を挙げ道路を斜めに横断しようとしたのであるから、同人に過失あること言うをまたないけれども、これがため被告人の前記注意義務違反に消長を来たすものではない。してみれば、前記の如く判示して被告人には何ら注意義務違反はないとした原判決は、事実を誤認しひいては法令の解釈適用を誤つたものでこの誤は原判決に影響すること明らかであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて刑事訴訟法第三百九十七条第一項により原判決を破棄し、同法第四百条但書に従い更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は諏訪自動車株式会社に勤務し、普通乗合自動車の運転の業務に従事しているものであるが、昭和三十三年十一月二十五日午前十一時十八分頃同会社の普通乗合自動車、長二あ〇五五六号を運転し、岡谷市方面より諏訪市方面に向い長野県諏訪郡下諏訪町富ヶ丘六千三百三十五番地附近の見通のよいほぼ直線平坦な巾員約六・九五米の新国道二十号線上を時速約三十粁で進行中、同所富ヶ丘停留所標識の反対側即ち被告人から見て右道路右側に太田松之助(当時七十二才)が道路中央を背にし、諏訪湖方向を眺めながら立つているのを約百二十米手前にて認めて右停留所に差しかかつたのであるが、被告人の雇われている前記会社が運輸省令自動車運送事業等運輸規則第二十七条に基き制定した同会社運転者安全服務規律第十条は、停留所通過の際は、乗降客の有無に拘らず徐行すべき旨を規定しているので被告人は徐行して右停留所に接近しなければならないばかりでなく被告人は右太田が停留所標識の反対側とはいえ停留所附近に諏訪湖の方を眺めて立つているのを遥か手前より認めていたのであり、かかる人家の少い郊外の道路等においては、バスの乗客が停留所ではなくその附近に時としては反対側においてバスを待つていることは間々存することであるから、乗合自動車の運転者たる被告人は、右太田の動静に留意し停留所に停車する時と同様何時でも停車できる程度にまで減速徐行する等事故を未然に防ぐため万全の措置を構ずべき業務上の注意義務があるのに、右太田の動静に留意することなく、平生右停留所に停車するる際には減速する地点である停留所標識より二十数米手前の踏切道を過ぎても減速徐行することなく、毎時約三十粁の速度で進行し、右太田との距離が約一五・二米に近接し同人が左手を挙げ合図しつつ道路中央に向け道路を横断しようとするのを見て一旦ブレーキを踏んだのみで慢然右太田は道路中央附近で立ち止るか或は自動車の後方に廻わるものと軽信しブレーキをゆるめ進行したため、更に右太田に近接してその距離八・六〇米の地点に至り、急停車の措置を構じたが間に合わず、右自動車の前部を右太田の腰部附近に衝突させ同人を前記停留所附近の路上に転倒させ、因つて同人に対し全治まで約二ヶ月を要した顔面複雑擦過裂創、後頭部打撲症、右足膝蓋部擦過打撲症、右環指及び左中指擦過傷の傷害を与えたものである。

(証拠の標目)(略)

なお弁護人は、被告人が被害者との距離八・六〇米に近接するまで急停車の措置をとらなかつたのは、突然急停車すれば、その反動により乗客に傷害を与えるので、これを避けるため己むを得なかつたものであると主張するけれども、前認定の如く被告人は、被害者との距離が八・六〇米に近接するまでに既に何時でも停車できる程度に減速徐行すべき義務があり、この義務に違反しているのであるから、右の主張は採ることを得ない。

(法令の適用)

法律に照らすに被告人の所為は刑法第二百十一条前段罰金等臨時措置法第三条に当るので所定刑中罰金刑を選択し、その金額の範囲内で被告人を罰金三千円に処し、右罰金を完納することができないときは刑法第十八条に従い金三百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、原審及当審における訴訟費用は、刑事訴訟法第百八十一条第一項本文により全部被告人の負担とする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 岩田誠 渡辺辰吉 小林信次)

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